永瀬一哉

徳島県三好郡池田町(現三好市)生まれ。幼少期を県立池田高校(池高)内の教職員宿舎に暮らす。父は池高英語科教員。

池田小学校(池小)時代は阿波池田の町中を走り回っていた(池高内の地図のマークのあたりに一戸建ての教職員宿舎が三軒並んでいた。北に向かって右が校長用(入居校長としては真鍋校長、須那校長の名を記憶)、中央は豊岡先生、左が永瀬だった)。今、一番懐かしいのは池高や池小のグランドでの草野球。甲子園で大ブレークする前の蔦文也先生が池高のグランドで「甲子園に行くんじゃ」と取り憑かれたように野球をやっていた。私の住まいの目の前で繰り広げられていた蔦野球の練習風景は何年経っても強く私の記憶に残っている。あれは凄まじかった。その結果、蔦先生の何か一つに打ち込む生き方は身近にいた幼い私に決して小さくない影響を与えている。それほどまでに強烈だった。

中学校入学。大いなる田舎から父の郷里、大都会東京へ、というはずだったが、そこはカエルが鳴き叫ぶ東京都日野市豊田。阿波池田の方がよほど都会だ。人々はテレビで聞いていた言葉づかいで話をしていた。転居するなら母の郷里の大阪の方が良かった。

日野市の公立中学校を経て、武蔵野市の都立高校へ。都心に一歩近付いた。高校時代は放課後いそいそと予備校へ。勉強したいというよりも、新宿や代々木、原宿へ行きたかった。知っている空間が広がって行くのが楽しかった。高校三年、受験。当初は関西の大学に行こうと思っていたが、結局受験したのは東京の大学だけだった。さて入試の現実は受ける端から次々に不合格。これはダメだと、浪人の覚悟をしたら、最後の最後で早稲田大学第一文学部が拾ってくれた。心の底から嬉しかった。早稲田の文学部には終生感謝。

大学に入った時は英語を勉強するつもりが、途中で、なぜか(なぜだろう、今でも分からない)日本史専攻へ。これで人生が大きく変わったと思われる。その後、早稲田には大学院(教育学研究科修士課程)までお世話になった。また、やり残した英語の勉強のため第二文学部(夜間部)にも通った。日本史学、教育学、英語学と、やりたい勉強はすべて早稲田でやらせてもらった。

ところで、歴史の勉強をしたことに後悔はない。それどころか、歴史を学んで良かったとしみじみ思う今日この頃である。

神奈川県とご縁あって(ここにもドラマがあるが)、現在、神奈川県立相原高等学校に勤務。東京都でなく神奈川県に就職したことで、私の人生を左右するインドシナ難民と出会うことになる。神奈川県はインドシナ難民が集住する県。社会科の教材研究を本気でやっているうちに、在日インドシナ難民支援とカンボジア支援に行きついてしまった。こうして、アフターファイブに「インドシナ難民の明日を考える会(CICR)」という吹けば飛ぶようなNGOの代表をしている。それは、高校教師たる私の実践と研究のフィールドでもある。そして、それを通して、余慶として、人生を満喫させてもらっている。

だから、神奈川県に大いに感謝。また、これまで勤務した県立上溝南高校、県立相模原高校、県立相模大野高校、県立相模原総合高校、そして現任校県立相原高校のある相模原市の皆様には多大のお世話になった。相模原は幼少期の阿波池田、青春時代の豊田(日野市)とともに三つ目の故郷である。

これまでの勤務校で特に忘れがたいのは県立相模原高校。十四年もお世話になった。二十代後半から三十代すべてがこの高校。ある意味、私の人生の真っ盛り。私が勉強したすべてをぶつければ、生徒諸君は実に見事にそれを受け止めてくれた。あの知的なキャッチボールは今思い起こしても心地よい。

また相模原市以外の勤務先であった県立厚木南高校(現厚木清南高校)定時制、県立教育センター(現総合教育センター)、神奈川県自治総合研究センター(閉鎖)にも感謝申し上げたい。

学会、研究会、教育機関には色々とご交誼を頂いたが、過去のお付き合いの中で最も大きな影響を与えられたのが日野社会教育センター。そこで学んだ現実社会の分析のノウハウは、早稲田での勉学と共に、今の私のベースになっている。

主な著書は「太平洋戦争・海軍機関兵の戦死(明石書店)」、「気が付けば国境、ポル・ポト、秘密基地-ポル・ポト派地下放送アナウンサーの半生-(アドバンテージサーバー)」、「I Want Peace!-平和を求めて カンボジア難民少年、日本へ-(相模原市書店協同組合)」、「クメール・ルージュの跡を追う-ジャングルに隠れたポル・ポト秘密司令部」など。

主な論文は「外国籍児童・生徒の学習権保障に関する研究」、「インドシナからの定住者をとりまく教育環境」など。

主な随筆は「託されたメッセージ(東京新聞連載)」など。中高社会科・地歴公民科関係の原稿はかなりの量を書いた。

長く関わって来たカンボジアに今後何ができるか。カンボジアは私に何を教えてくれるか。これからも楽しみにしている。そして、最近、原点である日本史への回帰が私の中で始まっていることに気付いている。それも関東地方に目が向いている。やっと関東人になって来たのかもしれない。ある民間人の手記に掲載されていた明治時代の市井の人物の名を、東京鈴が森に立つ石碑に見付けた時は興奮した。こんなこともいずれ公表したい。

現在都内に住む幼馴染みが強く誘ってくれ、近年、二十年ぶりに阿波池田を訪ねた。彼女は池田が実家のある故郷。私はただ生まれただけの故郷(父母にとっては異郷)。だから、普段行く機会がない。土讃線各駅停車に乗る。昔を思い出すためあえて各停。車内の方言を耳をそばだてて聞く。「こんなんだったっけ。自分もこんなふうにしゃべっていたのか」と思いつつも、聞いていて何かほっとする。ふるさととは良いものだ。


ポル・ポトと三人の男
永瀬 一哉

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