- 2019-8-11
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大井ゆき江<会員/主婦>
ある日、相模原市広報で「ボランティア」募集を見て、市役所に電話しました。その後、ボランティア団体の名称、代表者、連絡先の一覧表がぽーんと送付されただけ。正直言って、この対応には不満があります。(が、さておいて)その中で、息子の高校の先生でいらした永瀬さんに連絡しました。すると、なりゆきで、どちらも初体験となる「ボランティア」で「日本語を教える」ということになりました。
私の生徒はカエットさん。24歳のカンボジア人男性。来日したばかり。ヒムさんという20歳の奥様もいます。私はABCがわかるだろうから、ローマ字で覚えられるとばかり考えていました。ところが、クメール(カンボジア)語しかわからなかったのです。さあ、大変!!
五十音のカードを作り、「あ・い・う・・・」を覚えてもらうことから始まりました。部屋の壁にも表を貼りました。現在ほんの少しひらがなが読めます。ヒムさん(来日2年以上)が通訳です。女同士ということもあり、私達だけで盛り上がることもあります。
カエットさんは最初「上目使いの、ちょっと暗い淋しそうな青年」でしたが、最近はよく笑います。日本にも、私にも慣れてきたようです。「日本語を教える。覚えてもらう」という道はまだまだ試行錯誤と前途多難です。
ヒムさんは来年赤ちゃんが産まれます。日本で保育園に入れるには、費用だけでない問題もいろいろあります。カンボジアに仕送りして、おばあさんに育ててもらうという考えもあるようです。でも、彼女が「本当はここで、自分で育てたいの」と言った時は、思わず涙が出そうになりました。
彼女は私にとても気を使ってくれます。何度かカンボジア料理を作ってくれました。役場や県に電話する必要があり、私の携帯を取り出すと、すぐに「これを使って」と自分のを差し出します。自分達のことは私に負担させないように考えています。ホロリとしてしまうことが多々あります。感性の素晴らしい、こまやかな女性です。
彼らにとって、私が役に立ったのは、国勢調査や団地の申し込みの時でした。町も県も、他の言語(スペイン語、ポルトガル語、タイ語など)は案内書があるのですが、カンボジア語はないのです。ということは(残念ながら)彼らが日本語覚えるしかないのです。
もし、自分が外国で生活しなければならない時に助ける人間がいたら、私はすご~く嬉しいと思うのです。今も、これからも、彼らにとって、その「ありがたい人間」になれたらいいなあと思います。その『自己満足』だけが、私のボランティア初体験の感想です。
【3年後、ある日…】
今日はカエット・チャンナートさんの27歳のお誕生日でした。小さなケーキでお祝いしましたら、生意気に息子のノピエ君が、ろうそくを【ふー】と消すのですよ。どこで覚えたのやら。また今日は、初めて【チェンチェ】と私の肩をたたいて話かけました。記念すべき日です。。。なんてババ馬鹿ですね。
ヒムさんは、私に【私たちは何の恩返しもできなくてごめんなさい】と言います。あの子は、どこで、どうやって、そういう【心】を学んだのでしょう。ですから【私がおばあさんになったら、いっぱい助けてね】とお願いしましたが。
私の(多分後半の)人生の喜びの一つの出会いに感謝!!でした。
【さらに1年後…、初めてのカンボジア】
カエット家は、ほぼ毎年末にカンボジアに帰郷しています。
毎年(一緒に行きませんか?)というお誘いを受けていたので、2003年末にはじめてのカンボジア訪問をしてきました。ちょうどチア君(カエット家のいとこ、愛川町在住)の結婚式がプノンペンでとり行われるというので、そちらにも列席という欲張った計画でした。同行者は夫と私の友人です。
一足先に着いたカエットさんとヒムさんがプノンペン空港で迎えてくれました。未だに誰が誰なのか不明なのですが、ともかく大勢の親戚の方々から、本当に暖かいもてなしを受けました。ヒムさんの育ての親のおじいちゃん、おばあちゃんにも会いました。このお二人やこの親戚の方々の教育が、若い二人を育ててくださったことに感謝!(でもカンボジア語のできない私は、チェムリアップスオーのみ。情けない!)
カエット夫婦の故郷(コンポントム)は、まだまだ開けていません。水道や電気が無いのには驚きました。ここでも昼食を用意してもらって、村の皆さんはトラック2台で、私たちはワゴン車で悪路をシェムリアップへ。アンコールワットの遺跡群は想像以上の感動でした。ここで観た、朝日と夕日は一生忘れられないと思います。
いよいよ結婚式。2日に渡る中、僧侶の読経の中の様々の儀式は、とても興味深いものでした。2日目の披露宴は、午後4時から10時位まで。延々と歌い踊り、食べて飲んで。この時、私はカエットさんが、心から楽しそうにはしゃいでいる姿を初めて見ました。彼は、日本では、いつもどこかで(緊張)しているんだなあと思ったら、私は涙が溢れるのを抑えきれませんでした。そんな私を察したのか、カエットさんが(踊りましょうよ)と私の手を引っ張って踊りの輪の中に連れて行きました。そして暫くの間、私に付き添って、踊ってくれました。
ヒムさんは、日本語も本当によどみなく話しますし、元来明るいので、私にも色んな話をしてくれます。カエットさんは、まだまだ言葉が、私との間に壁となっているように、いつも思っていました。私にも、ヒムさんほどには、うちとけてないなあと、いつもどこかで、そのことが心残りでした。そういう3年半でしたから、私はカエットさんのあの日の手のぬくもりを忘れることができません。今でも思い出すとうれし泣きです。
ひょんなことから始まった(私の初体験のボランテイア)ですが、ますます(カンボジア)や(カエット家)の魅力にとりつかれて、深みにはまっていきそうです。カエット家のノピエ君(私たちは、お猿!と呼んでますが。。。)が、私たちと別れる時に、ぐずって泣いていたことも、ますますはまっていく理由の一つなんですが。
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